ヘルシンキで学んだ、シンプルに考え、シンプルに行動するということ


ヘルシンキ市内は、路面電車が縦横に走っていて、タクシーなんか利用する必要がないくらい便利だ。

これに乗るには、例えばスマホアプリを使い、クレジットカードで乗車の権利を買って乗る。

乗るといっても、誰もチェックしない。
乗車時に改札が無いし、乗車後に検札が無い。降車時も、確認しない。

翻って日本のことを考えてみると、不正利用防止のために、ものすごい投資をしていることに気がつく。すごくお金をかけて、素晴らしく効率良く不正利用を排除してる。でもこんなに投資してるってことは、普通に利用している人たちの非効率につながっているのだとも言える。

つまり、過剰な効率化が非効率を生み出している。本当は、もっと単純な発想の方が、社会を円滑にしていくんじゃないか。そう思うんだよな。


翌日、同じヘルシンキで、教育行政にたずさわっている方と話をした。
そこで知ったフィンランドの教育現場。
例えば、学校の授業、カリキュラムの内容、使用する教科書。全て、学校ごとに先生たちが話し合って決めているのだそうだ。

学校が主体的に決めている。
つまり行政は、教育現場に介入しないのだ。

さらに現場の先生をサポートする先生がいて、その人は授業を持たない。先生を孤立させない、組織的に支援する。

そうすることで、それぞれの状況にあわせた、生き生きとした学びの場が作られていく。そういう仕組みだ。

さらに学びは学校の枠を超え始めていて、小学校で企業による寄付授業みたいなものを試行し始めているのだとか。

初等教育だからこそ、枠にはめても仕方ない。だからこそ、可能性をもっと大きくとらえた学びの場は大切だ。

なんかすげーなと思った。
未来があるよね。

同時に、学校ていうのはこんなもんだ。という先入観がなかったら、案外近いことを考えたかもしれないとも思った。

そうは言っても、ぼくらの日本という現実は、なかなか理想とはほど遠い。でも課題があるなら修正していけばいい。

そしてその課題は、子どもたちの課題であるからこそ、ぼくたち全ての課題だ。
だから、子どもたちに自律性を持たせたいなら、ぼくたちも自律的であるべきだ。

多様で個性的であることが大切だと思うなら、それを子どもたちや、学校だけに押しつけないで、ぼくたち自身がそうあるべきだ。

画一的で、非効率であることは、みんな好きじゃ無いはず。
そして、個性豊かな人たちがあふれる社会を、みんな望んでいるはず。

だからこそ思う。

もしかしたら、ぼくたちの正解は、もっともっとシンプルなところにあるんじゃないか。
だって、今のガチガチな仕組みを忘れたら、みんなの答えは意外にも近い。

シンプルな結論を、シンプルに実現していく。
そういうことなんだよ。

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